天下の小論

其の詩を頌し、其の書を読み、其の世を論ず 東洋古典の箚記集です

『韓非子』 人をどこまで信じればいいのか

韓非子マキアヴェッリは、よく似ている。

 

社会が乱れ、裏切りや陰謀が渦巻くようになると、こういった考え方をせざるを得ないのだろう。

 

韓非子は言う。

君主は、人を信じてはならない、と。信じることが、身を滅ぼす原因となる。

人を信じれば、人によってコントロールされるようになってしまう。

 

例えば、臣下は、君主に対して肉親の情で仕えている訳ではない。

君主の方に権威と権力があるから、仕方なく從っているのである。

 

であるから、臣下は常に君主を観察して付け込もうとする。

ところが、君主の方はといえば、自分の地位が安泰だと考え、臣下を信じて疑おうとはしない。

 

臣下を信じた結果が、臣下に権力を奪われたり、場合によっては殺されたりする原因となる。

それでは、臣下ではなく身内であれば、信じてもよいかといえば、そうでもない。

 

君主が、その子を信じれば、臣下はその子を利用して、自らの勢力を高めようとする。

君主が、その妻を信じれば、臣下はその妻を利用して、自らの勢力を高めようとする。

 

昔、趙の国で李兌(りたい)の事件が起こったのは、武霊王が子を信じたからであり、晉の国で優施(いうし)の事件が起こったのは、獻公が驪姫を信じたからである。

 

子や妻を信じてさえ、このようなことが起こるのであるから、他人を信じることなど、とんでもないことなのである。

 

韓非子の論は、確かに正しいのではないかと思えることが、恐ろしい。

 

 

 

出典 (明治書院)新釈漢文大系11 『韓非子 上』竹内照夫著 195頁

備内(びない)第十七

人主之患在於信人。信人則制於人。人臣之於其君、非有骨肉之親也、縛於勢而不得不事。故爲人臣者、窺覘其君心也、無須臾之休、而人主怠慠處其上、此世所以有劫君弑主也。爲人主而大信其子、則姦臣得乘於子以成其私。故李兌傅趙王、而餓主父。爲人主而大其妻、則姦臣得乘於妻以成其私。故優施傅驪姫、殺申生、而立奚齊。夫以妻之近與子之親、而猶不可信、則其餘無可信者矣。

 

人主の患(うれひ)は人を信ずるに在り。人を信ぜば則ち人に制せられむ。

人臣の其の君に於けるは、骨肉の親(したしみ)有るに非ざるなり、勢(いきほひ)に縛(ばく)せられて、事(つか)へざるを得ざるなり。故に人臣爲(た)る者、其の君の心を窺覘(きてん)するや、須臾(しばらく)も休(や)むこと無し、而(しか)も人主は怠慠(たいがう)して其の上に處(を)る、此れ世に君を劫(おびやか)し主を弑(しい)する有る所以なり。

人主と爲りて大(おほい)に其の子を信ぜば、則ち姦臣は子に乘じて以て其の私(わたくし)を成すことを得む。故に李兌(りたい)は趙王に傅(ふ)となりて、主父(しゅほ、胡服騎射で有名な武霊王のこと)を餓ゑしむ。

人主と爲りて大に其の妻を信ぜば、則ち姦臣は妻に乘じて以て其の私を成すことを得む。故に優施(いうし)は驪姫(りき)に傅となり、申生(しんせい、晉の文公の兄、親孝行で有名)を殺して、奚齊(けいせい、)を立つ。

夫(そ)れ妻の近きと子の親きとを以てして、而(しか)も猶を信ず可(べ)からずば、則ち其の餘は信ず可き者、無からむ。

 

 


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