天下の小論

其の詩を頌し、其の書を読み、其の世を論ず 東洋古典の箚記集です

『世説新語』 善を褒めるのが本当の善である

臣父淸畏人知、臣淸畏人不知(徳行 世説新語

臣の父の清は、人に知られることを畏れ、臣の清は、人に知られざることを畏る。

 

本当の聖人であれば、人の評価などは気にしないであろう。

しかし、普通の人間は、そうではない。

 

やはり、尊敬されたり、信頼されたりすることを求めている。

僕は、それでいいじゃないかと思う。

 

立派なことをしても、誰も誉めてくれないのであれば、多くの人は立派なことをしなくなる。

それが、今の日本の実情だろう。

 

西晋の時代に、胡威(こい)という人がいた。

都から、父の許へ帰省した時、父から絹を与えられた。

 

胡威は、父の清廉さを知っていたから、「どうしてこのような高価な品を」と訊ねた。

父は、俸禄の余りで手に入れたものだから、気にするなとのことだった。

 

都へ戻る途中、一人の男が、しきりに胡威に親切にする。

不審に思い、問いただしてみると、父の部下であった。

 

恩義を感じて貰い取り入ろうと、考えたのであろう。胡威は、礼だけ言って、父の許へかえした。

このことを知った胡威の父は、部下の言動を罪に問い、その地位を剥奪したという。

 

後に、胡威は徐州の長官になった。

皇帝に引見された時、帝は、胡威の父親の清廉さに感嘆し、胡威に尋ねた。

「お前と父親、どちらがより清廉なのだろう」、と。

 

胡威は、「私は父に及びません」と答え、帝が、さらにその理由を訊くと、こう答えた。

 

「私の父は、清廉さを人に知られることを畏れていましたが、私は、人に知られないことを畏れています。とても、及ぶものではありません」、と。

 

胡威の父親のレベルは、目標としては高すぎる。

しかし、胡威のレベルくらいは目指したいものである。

 

自慢話はいけないと教わった。

つまり、人はそれだけ人に誉めて貰いたい生き物だからである。なかなか、誉めて貰えないから、自慢話をしてしまう。

 

であれば、善行の自慢であれば、お互いに聴こう、言おうで、良いのではないだろうか。

そして、その自慢を広め、誉め合えば、家庭も組織も社会も、もう少しは良くなるように思える。

 

自分自身が清廉であったり、善行を為したりすることは、当然、重要なことであるが、他人の善を認めることは、それ以上に、大事なことである。

 

 

 


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