天下の小論

其の詩を頌し、其の書を読み、其の世を論ず 東洋古典の箚記集です

『論語』 神は乗り越えられる試練しか与えない?

記事の題名の言葉は、いつ頃からか、よく聞くようになった言葉である。

素晴らしい名言だという人が多いようだが、私は好きになれない。

 

極めて傲慢な匂いがする。

「人に乗り越えられない試練は無いんだ、人間は何でも出来るんだ」

 

とんでもない話である。

「死生、命あり。富貴は天にあり」(論語 顔淵第十二)である。

 

この言葉の元は、新約聖書パウロによる「コリント人への手紙第一 10-13」であろう。

 

そこには、

「神は信頼に値する方です。耐えられないような試練をあなたがたに遭わせるようなことはなさらず、むしろ、耐えることができるように、試練とともに抜け出る道をも用意してくださるのです」

と、書かれている。

 

これは、全く私の好き嫌いの問題ではあるが、私は新約聖書パウロの文が、どうにも好きになれないのである。

 

しかし、パウロという人は凄い人で、、キリスト教ユダヤの狭い世界からオリエントやローマに広まったのは、このパウロの力である。

 

しかし、好きになれないものは仕方がない。

キリストの事績を述べた福音書には魅力を感じるが、パウロの書簡は生理的に受け付けないのである。

 

ここで、好き嫌いは脇において、聖書の文を読んでみると、パウロが言っていることは、神の大いなる愛の素晴らしさであろう。

 

つまり、キリスト教という枠組みの中で、神の愛を称える意味で、「神はのりこえられる試練しか与えない」と言うのであれば許されると、思う。

 

しかし、神を信じていない人間が、この言葉を使った場合は、傲慢以外の何物でもないだろう。

ここでの神は、ただの修辞である。

 

また、ある書物から一部分だけ抜き出して語ることは、不誠実でもある。

その証拠に、「コリント人への手紙第一」の、紹介した文章のすぐ前で、パウロは、こうも述べている。

「自分は大丈夫だと思う人は、倒れないように気を付けるがいい」、と。

 

とにかく、乗り越えられない試練はないなどといった世迷言を信じてはならない。

もし、神というものがいるなら、それは冒瀆である。

 

「したいことを何でも出来るのは神様だけ、人間は出来ることを一生懸命やるしかない」

これこそが、真実である。

 

出典 (明治書院)新釈漢文大系1 『論語

顏淵第十二 

司馬牛憂曰、人皆有兄弟。我獨亡。子夏曰、商聞之矣。死生有命、富貴在天。君子敬而無失、與人恭而有禮、四海之内、皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也 

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