天下の小論

其の詩を頌し、其の書を読み、其の世を論ず 東洋古典の箚記集です

『孔子家語』 貧は士の常なり

孔子が太山(泰山)に行った時のことである。

 

栄啓期(えいけいき)という人が、郕(せい)という魯の町の野で、貧しい身なりで琴を弾いて、楽しそうに歌を歌っていた。

 

奇異に感じた孔子は、尋ねた。

「あなたの楽しみは何ですか」、と。

 

栄啓期が答えるに、

「私の楽しみは沢山ある。

まず、天が万物を生じて、その中で人が最も貴い。その人に生まれた。これがまず一つ。

男女でいえば、男が貴い。その、男に生まれた。これが、二つ目。

日の目もみずに幼くして死ぬ者もいるが、私は今、九十歳になった。これが三つ目の楽しみだ」、と。

 

楽しみは沢山ある、と言いながら、三つであるところが、奥深い。

三つしかないのではなく、三つもあるという意味だと、僕は思う。

 

そして、この後の言葉が有名である。

 

貧者士之常也、死者人之終也。處常得終、當何憂哉。(天瑞第一)

貧は士の常、死は人の終わり、常に處(お)りて終るを得る、當(まさ)に何をか憂うべきや。

 

僕なりに訳せば、

 

「私は貧乏だが、人として真っ当に生きていれば貧乏は当たり前だ。そして、人として生れたならば死ぬことも当然だ。真っ当に生きて死んでいくことが出来る。何も憂うことはない。人生とは楽しみに満ちているではないか」

 

「貧は士の常なり」という言葉は、多くの人にとって、勇気を与えてくれる言葉である。

ただ、逆は必ずしも真ならず、であり、貧しいからといって、真っ当に生きているとは限らない。

 

ところが、多くの人は間違えてしまう。

そして、貧乏だと良い人、金持ちだと悪い人といったステレオタイプが出来上がってしまう。

 

大切なことは、「士」として生きるかどうかである。

孟子が「恒産なくして恒心なし」と言ったように、ある程度豊かであることは大事なことである。

 

普通の人間は、「貧すれば鈍す」といった風になりやすい。

くれぐれも、碌でもない貧乏人にはならないようにしたいものである。

 

蛇足だが、この逸話は、『孔子家語』にも、ほぼ同じものが載っている。

ただ、そこでは栄啓期ではなく、栄聲期(えいせいき)である。

 

 

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