『列子』 類に貴賤なし
日本人は、宗教的にいい加減な民族だと批判されることがある。
生まれたならお宮参りで神社に行き、教会で結婚式を挙げ、死んだら仏になるなんて話を聴けば、敬虔なキリスト教信者といった立場の人からすれば、許し難いほどいい加減かもしれない。
しかし、いい加減ということは、良く言えば寛容ということである。
浅い理解かもしれないが、キリスト教やユダヤ教といった一神教は、その根本の部分で寛容という精神から遠いように思う。
旧約聖書「創世記」には、
我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう、とある。
神の前では平等とはいうが、人間が平等なのであって、人間以外は平等とは考えない。だから、異教徒や異端といったものを、平気で殺すことができる。異教徒や異端は、人間には含まれないからである。
つまりは、キリスト教徒である人間こそが最も尊く、それ以外の人も自然も、全てが征服し支配する対象である。
しかし、東洋では、こうは考えない。
人間だけが特に尊い訳ではなく、全てが自然の一部であると考える。
中国の春秋時代、斉の家老であった田氏が宴を開いた。その場で、魚と雁が献上された。
田氏は、その献上品を見て、
「天は偉大だ。五穀や魚鳥を人間のために生じさせてくれる」
と感歎した。
出席した多くの客は、その通りだと口を合わせたが、12歳の子供が進み出て、ご主人は間違っていると発言したという。
子供の主張は、 人も他の生き物も、同じ生き物であって、どちらが上ということはない。お互いが、必要に応じて食らい合っているだけである。
もし、人のために魚や鳥がいるのであれば、蚊や蚋(あぶ)のために、天は人を生じさせたことになる。虎や狼のために、天は人を生じさせたことになる。
生き物には、それぞれ大きさや智力に違いはある。違いはあるが、貴賤はない。 何かのために何かがあるという関係、人間のために自然があるといった関係ではない、それが子供の主張である。
今の世界に必要な思想は、この東洋の思想ではないだろうか。
出典 (明治書院)新釈漢文大系22『列子』小林信明著 412頁説符第八 第二十九章
齊田氏祖於庭。食客千人。中坐有獻魚鴈者。田氏視之、乃歎曰、天之於民、厚矣。殖五穀、生魚鳥、以爲之用。衆客和之如響。鮑氏之子年十二、預於次。進曰、不如君言。天地萬物與我、竝生類也。類無貴賤。徒以小大智力而相制、迭相食。非相爲而生之。人取可食者而食之。豈天本爲人生之。且蚊蚋噆膚、虎狼食肉、非天本爲蚊蚋生人、虎狼生肉者哉。
齊の田氏庭に祖(そ)す。食客千人。中坐にして魚鴈(ぎょがん)を獻(けん)ずる者あり。
田氏、之を視て、乃(すなは)ち歎じて曰く、天の民に於ける、厚し。五穀を殖(そだ)て、魚鳥を生じて、以て之が用と爲す。
衆客、之に和すること響(ひび)きの如し。
鮑氏(ほうし)の子、年十二、次(じ)に預かる。
進んで曰く、君が言の如くならず。天地の萬物と我と、竝(なら)びに生類(せいるゐ)なり。類に貴賤無し。徒(ただ)小大智力を以てして相制(あいせい)し、迭(たがひ)に相食むのみ。相爲(あいため)にして之を生ずるに非ず。人は食す可き者を取つて之を食ふ。豈(あ)に天本(てんもと)人の爲に之を生ぜんや。且つ蚊蚋(ぶんぜい)、膚を噆(か)み、虎狼、肉を食(くら)ふは、、非(あ)に天本蚊蚋の爲に人を生じ、虎狼のために肉を生ずる者ならんや。