『論語』 人生に無駄なことはない
孔子の弟子である子游(しゆう)が、武城という所の代官になった。
「人材は得たか」
と孔子が訊ねた。
すると、澹臺滅明(たんだいめつめい)という変わった名前の人物を得たという。
この澹臺滅明という人は、見た目はよくない人だったという。
子游は、澹臺滅明の良い所を二つ述べている。
一つは、公用でなければ、上司である子游の私室にはやってこないということ。
これは、納得できる話である。
公私の別をはっきりさせている人物だ、ということである。
面白いのは、もう一つの理由である。
道を行く際、近道をしないというのである。
近道をしない
何かとても好きである。
効率という観点からすれば間違っているかもしれないが、物事は全て効率で片づけられるものではない。
人生だって、考えてみれば、そうである。人生の最終着地点は死ということだから、近道したら、生まれてすぐ死ぬということになってしまう。
近道どころか、寄り道回り道してこそ、人生は豊かになり面白味も増すというものだろう。
そうして、一見無駄なような寄り道や回り道が、実は無駄にならなかったということが、実際は多いように思える。結局のところ、人生に無駄はない。
出典 (明治書院)新釈漢文大系1 『論語』 136頁
雍也第六
子游爲武城宰。子曰、女得人焉爾乎。曰、有澹臺滅明者。行不由徑。非公事未嘗至於偃之室也。
子游(しいう、言偃の字)、武城の宰と爲る。
子曰く、女(なんじ)人を得たるか、と。
曰く、澹臺滅明(たんだいめつめい)なる者有り。行くに徑(こみち)に由らず。公事に非ざれば未だ嘗て偃の室に至らざるなり、と。