『論語』 悪いことをしないからといって良い人だとは言えない
人は、本質的には「悪」ではないと思う。自ら積極的に悪を為す人は、数少ないであろう。
ただ、積極的に善を為すかといえば、そうでもない。
ドストエフスキーの言葉に、このようなものがある。
「私にはその行為に責任があるのだろうか?ないのだろうか?」という疑問が心に浮かんだら、あなたに責任があるのです。
責任とは、英語でいえばresponsibilityである。
bilityは能力であり、responseは反応することであるから、責任とは反応する能力である。
「私がやらなくて誰がやる」といった気概こそが、責任である。
責任感といってもいい。
論語における有名な言葉である
「義を見て為さざるは勇なきなり」とは、こういうことであろう。
自分は悪いことをしてないといっても、それだけで自分を善良と考えてはならないのである。
『現代の経営』で、ドラッカーも似たような話を述べている。
19世紀初頭のイギリスの宰相であった小ピットという人が若くして死んだ。
天国の門で聖ペテロから「政治家であるお前が何故天国に入れると思うか?」と質問を受けた。
小ピットは「私は賄賂も受け取らず、愛人も持たなかった」と答えた。
この答えに対して聖ペテロは、
「やらなかったことに興味はない。お前は何をしたのか?」と再び聞いた。
僕らは気づかない内に、何もしないという悪を積み重ねているのかもしれない。
出典 (明治書院)新釈漢文大系1『論語』60頁
為政第二
子曰、非其鬼而祭之、諂也。見義不爲無勇也。
子曰く、其の鬼に非ずして之を祭るは、諂い(へつら)ふなり。義を見て為さざるは、勇無きなり。