天下の小論

其の詩を頌し、其の書を読み、其の世を論ず 東洋古典の箚記集です

『国語』 生産性ということ

英語でいえば、コストパフォーマンスである。

投入した資源に対して、どれだけ成果をあげることができるのか、ということである。

 

10人で100の仕事をしていた場合、100が150になっても、8人で100の仕事ができるようになっても、生産性は向上したということになる。

 

悪いことではないと、今も基本的には思っている。

ただ、生産性が、最上位の価値観になることは問題かもしれない。

 

何故なら、生産性を突き詰めていくと、楽をして成果が上がることが、最善ということになってしまうからである。

 

楽をして成果が上がって何が悪いと言われそうだし、自分自身、そう考えてきたが、どうも間違っていたのではと反省している。

 

思うに、生産性や効率の追求ばかりを求めたことが、つまりは、いかに楽をして成果を上げるかを最優先に考えてきたことが、現代の閉塞感を生んだのではないか。

 

中国の春秋時代、趙襄子(ちょうじょうし)という晋の宰相がいた。

彼がある時、部下に狄(てき)という異民族を討伐させた、という話がある。

 

その戦いは大勝を収めた。

しかし、趙襄子は喜ばなかった。それどころか、恐れる雰囲気があったという。

 

家臣が不審に思って訊ねると、趙襄子は、こう答えた。

「『徳』が無いのに、福禄がやって来るのを、『幸』というのだ。『幸』と『福』は違う」

と。

 

この時代、徳が無い時に、大きな財を得たり、戦いに勝ったりすること、つまりは、「幸」がやってくるのは、天が災いを下す前兆であるという、信仰めいたものがあった。

 

であるから、単純に「幸」や運の良さを喜ぶことはなかった。

何かを得た場合、自分にそれを受ける資格があるのか、それほどの徳があるのかと、かえって、怖れるという考え方が生まれたのである。

 

天の前兆が実際にあるかどうかは別にして、現代とは、その価値観が随分と違う。

ただ、二千年以上前の価値観の方が、健全ではないだろうか。

 

日本は、まだまだ豊かである。

にもかかわらず、何故か心が満たされていないと感じる人は、多いだろう。

 

経済的な、物質的な豊かさだけを追求してきた結果だと、批判する人もいる。

しかし、経済的に物質的に豊かになることは、決して悪いことだとは思えない。

 

簡単に言えば、貧乏よりも金持ちの方がましである。

 

根本的な問題は、徳を積むことによって得られる「福」ではなく、楽をして得られる「幸」ばかりを追及してきたからではないだろうか。

 

つまり、ヘリコプターで山の頂上に降り立っても、登山の喜びは得られないように、楽をして得られる「幸」からは、真の喜びは得られないのだろう。

 

また、宝籤で当った大金からは平安が得られないように、「幸」からは、真の心の安らぎは得られない、ということだろう。

 

結局、徳を積むことによって得られる「福」を改めて追求することが、今の日本において最も大事なことではないか、と思うに至った。

 

 出典 (明治書院)新釈漢文大系67 『国語』大野峻著 649頁

晉語九

趙襄子使新稚穆子伐狄、勝左人中人、遽人來告。襄子將食摶飯、有恐色。侍者曰、狗之事大矣、而主之色不怡、何也。襄子曰、吾聞之、德不純、而福祿並至、謂之幸。夫幸非福、非德不當雍、雍不爲幸、吾是以懼。

 

趙襄子、新稚穆子(しんちぼくし、人名)をして狄(てき)を伐たしめ、左人中人(狄の二邑)に勝ちて、遽人(きょじん)來りて告ぐ。

襄子將に食せんとして飯(はん)を摶(たん、丸めること)して、恐るる色有り。

侍者曰く、狗(こう、新稚穆子のこと)の事は大なり、而(しか)るに主の色怡(よろこ)ばざるは、何ぞや、と。

襄子曰く、吾、之を聞く、德純ならずして、福祿並び至る、之を幸と謂ふと。夫れ幸は福に非ず、德に非ずんば雍(やはら)ぐに當(た)へず、雍ぐは幸と爲さず、吾是を以て懼る、と。

 

(『淮南子』道応訓608頁にも同様の記述がある)

 

 

 

 


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