『世説新語』 財物は人のためにある
何有以財物令人慙者
いずくんぞ、財物をもって人をして慙(はず)かしめることあらんや
司馬徽(しばき)の逸話である。
司馬徽は、三国志の中で、劉備に孔明を推薦することで有名な人で、水鏡先生と呼ばれている。
何を言われても「好(よし)」と答えた、という。
ある人が、自分の子供が死んだことを伝えると、それにも「好」と答えた。
妻が、「人が死んだのに、好(よし)とはおかしいでしょう」と責めると、
「おまえの言う事も、また大いに好(よし)だ」、と。
仕官せず貧乏暮らしであった。
ある日、知り合いが蚕を飼おうとして、簇(まぶし)を貰いに来た。
簇(まぶし)とは、蚕が繭を作るための枠、人口の巣のことである。
司馬徽は、自分も蚕を育てようとしていたのだが、その人に簇を譲り、自分の蚕は棄ててしまった。
このことを聞いた人が、
「人に何かを与えるのは自分に余裕がある場合でしょう。自分も困っているのに、何故、そのようなことをするのですか」
と、訊ねた。
司馬徽は答えた。
「人から求められて与えなければ、その人に恥をかかせてしまう。たかが財物で、人を辱しめることはできません」、と。
古典には、
「其の養う所を以て其の養(やしなう)を害せず」(養うための手段(土地や財産)のために、その養(人間)を害しない)
という言葉が、よく出てくる。
言われてみれば、その通りである。
財物は、人のためにあるのであって、財物のために人があるのではない。
しかし、日常を振返ると、財物のために自分を犠牲にしていることの方が多いかもしれない。
また、司馬徽とは違って、人に財物を与えることよりも、人から財物を得ることを成功と考えているようでもある。
人にはカップラーメンを与えて、自分はステーキを食べる。
その反対に、自分はカップラーメンで、人にはステーキを与える。
どちらの方が豊かなのか、改めて考えてみると微妙である。
出典 新釈漢文大系『世説新語 上』言語第二91頁
(湯島聖堂の桜)